2拠点生活エッセイ第18回「役割」

福知山市雲原地区の秋祭りが中止になった。
理由は台風である。結果的に、当日は予報よりも落ち着いた天候になったけれど、前日は雨で参道はぬかるんでいて神輿を山からおろしてくることが難しかったし、7月のような被害がもし出たら全く祭りどころではない。致し方ない判断だろう。

雲原の祭りは、2つの的に向かって30メートルくらい離れたところより矢を放つことから始まる。
矢が的に当たってから神主さんが祈祷を始めるという習わしで、祈祷予定時刻の1時間くらい前から矢を射り始める。それには「早いて!そんな早よ当ててもあかん」と言う人もあれば「ほやけど当たらんかったら始まらへんで」と言う人もいる。実際全く当たらなくて最終的に的に矢がくっつくぐらいの距離から当てた年もあったそうだ。いずれにしても「やってみちゃろか」「あかんなぁ」と老いも若きも挑戦するのがどこか楽しい。

祭りが中止ということは、この的当てと祈祷、そして神輿の巡行といった神事がないということだ。それでも、神社の守り当番を引き継ぐ「当渡し(とわたし)の儀」という儀式だけは神事と関係なく行われることになった。

守り当番とは祭りの日から次の年の祭りの日までの1年間に、神社の掃除を主として、神輿やお賽銭の管理をしたり正月と祭りの日に飾るしめ縄を作ったりと、文字通り神社の守りをする役割である。雲原の8つの区が、1年ごとに当番を回して担当していく。当渡しの儀では、先の当番区である上番(じょうばん)と、次の当番区となる下番(げばん)が神社の祭壇に集い、申し送り事項を確認して当番を引き継ぐ。

私たちの暮らす区は上番として、祭りの日の朝7時から神社を目指して山を登った。
儀式は9時からだが、それまでに境内から台風で散った落ち葉を片付けなければならない。といっても前日の大掃除(我が家からは夫が出動)でかなりキレイにしてもらっているので、竹箒でカイカイと掃いて集めて山の方へ持っていく作業もほんの少しで済んだ。手作りの太いしめ縄を首に巻かれた狛犬は昨晩の雨に濡れて、紙垂(しで)はぐっしょりと水気を帯びてちぎれているところもある。どうせ濡れるから当日つけようという声もあったが、守り当番を支えてくれた長老の「いや、つけとこう」の声があって先につけておいたらしい。長老は当日来られなかったので、自分が見ているところで完成させておきたい気持ちがあったのかもしれない。

1時間ほどの掃除が済んで道具を片付け終わる頃、ポツポツと軽トラが上がってきて人が降りてくる。
「おはようございます」ではなく「ご苦労さんです」を第一声として発する人が多い。確かに、早朝からの山登りだ。服装は正装と指定されているのでみんなスーツを着ている。だが足元は革靴よりも長靴や運動靴の人の方が多い。参道や境内のぬかるみに足を取られると靴がすぐに泥だらけになるからだ。私も昨年知って、今年はワンピースの足元に農作業用のゴツい長靴を採用している。となりの区のおっちゃんには「えらい素敵な靴やな」とからかわれたが、同じ区のおっちゃんから「掃除しとったからやで」と助け舟が入る。

宮総代(神社にまつわる諸々を執り仕切る人たち、祭りをやるかやらないかもここの話し合いで決まる)、上番・下番、自治会長・副自治会長・区長が集まり、当渡しの儀が始まった。
上番が一年間役割をつとめた感想と下番への申し送り事項を読み上げ、下番がこれから当番をやるにあたっての抱負を短く語る。総代の司会で滞りなく進んで、あっという間に終わった。祭壇から出て、また長靴を掃いたら、神社の横にある集会所に移動して懇談会である。ここでは、上番・下番が「今年の掃除はこうした」とか「しめ縄はいつ作った」とか細かい申し送りをする。私たちの区の当番長は、これまでやってきた掃除や準備の内容や写真をまとめた紙を下番の当番長に渡して説明を始めた。

集会所はもともと大晦日の夜から元日の朝までの「お籠り(おこもり)」に使われていた。囲炉裏に火を起こすことで暖と灯りをとるため電気がない。数年前に誰かがどこかからもらってきた発電機のおかげで蛍光灯が設置されたようだが、お籠り自体が2年前になくなって以来使われなくなったという。
曇り空の外からの光の中、床板に置かれた畳の上に20人ほどがあぐらをかく。座れない人は立つか、横に置いてある物置代わりの台に腰をおろす。
畳の真ん中の方では、守り当番の引き継ぎについてだけではなく神社や地域の歴史にも話が及んだ。静かに飲んでいるように見える人も、総代の声には耳を傾けていて、ところどころワッハハと声をあげて笑う場面もあった。
私は輪の横に出て、久しぶりに会った隣の区のおじいさんと話していた。お酒が苦手なのにウィスキー工場で酒を作って働いていたこと、自分のお父さんが亡くなったときのことは初めて聞いた。というかそもそも、顔見知りというだけで、こんなふうにゆったりと話したことは今までなかったのだ。

昨年下番として参加したとき、この懇談会は30分しないうちに終わった。しかし、今年は次の役割がないので(たとえば山を降りて神輿巡行に備えるとか、巡行後のうどんの振る舞いの準備をするとか)気づけば2時間があっという間に過ぎていた。

「ええ加減に終わろやないか」という声と共に「祭りがない方が盛り上がっとるやないけ」という笑い声が聞こえた。確かに、こんなに楽しい時間になるとは思いもよらなかった。

今日この場所にいるのは、祭りに関わる役割をもっている人々である。
雲原の中では村の中の役割のことを「役」と呼んでいて、それは基本的には面倒なもの、厄介なもの、避けたいものとして認識されている。自発的に負うものではないからだ。たとえば私たちの区では区長になる50〜60代が少ないため2人の男性が代わりばんこに担ってくれているように、やる人がいないからやる。もちろん中にはやりたくてやっている人もいるのだろうけれど、私だって今後役がまわってきたらまずは面倒だなと思ってしまう。

雲原に移住したての頃は私も若く白黒つけたいシーズンで、面倒なんやったらやめたらいいのにと思っていた。でも自分も役割で輪の中に入ることが増え、さらに役割の集まりで今回のような楽しい時間に出くわしたりすると、あぁ役割って・・・と空を見上げる時間が増えた。

たとえば祭りの当番でなかったら、祭りがなくなった日にこんなに早い時間から山を登ることはなかっただろう。ここに来ていなければ、総代が話し上手だということも知らなかったし、顔見知りのおじいさんとゆったり話すこともなかった。長靴を笑うおっちゃんと会うことも当分なかった。趣味や気の合う人たちなら役割がなくてもいつか会えるだろうけれど、雲原に住んでいるというだけでつながっている人たちと私をつないでくれるのは、どうしても役割なのだ。

京都市でも町内会には入っているけれど、雲原の役割よりは、ずいぶん気が軽い。
町内会に入っているということを理由に、どうしてもいかなければならない場所や時間が圧倒的に少ないからだ。私たちの地区の場合、町内会費は一年に一度一括で払うけれど集めに来てくれるし、配り物もあれば随時ポストに入れてもらえる。一日仕事になる河川の草刈りもない。公園の掃除のお知らせが入っていることもあるけれど、主に子どものいる世帯がいく行事という認識らしく、行かなかったとしても不参加の人夫賃を払う必要はない。

雲原と京都市とを往復するようになって、「そこに住んでいる」を理由に始まる役割はこれからどうなっていったらいいんだろうか?とますます考えるようになった。
面倒はいやだなぁと思うけれど、なくなってしまえばいいとも思い切れない。神社の守り当番が自由参加だったら、生まれ故郷でもない村の祭りについて私がこんな文章を書くこともきっと無かったし。

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この記事を書いた人

農家民宿「雲の原っぱ社」宿主。1989年生まれ。福知山市で生まれ育つ。京都女子大学現代社会学部現代社会学科卒業後、NPO法人暮らしづくりネットワーク北芝で地域教育に関わる。2012年、福知山市の雲原地区へ単身移住。2016年、結婚を機に京都市との2拠点生活スタート。同年11月、女児の母となる。クマと星野源と夫が好き。

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