5月は忙しい。米作りが始まるからだ。
京都市と福知山市とを行ったり来たりする2拠点生活も、このときばかりは福知山市で過ごす日が増える。
3人で迎える3年目の米作り
そんな今年、一番の気がかりは作業中の娘のことである。
生まれて半年になる娘は、ついに首が座った。
寝返りもできるようになり、腹ばいの状態からハイハイをしようと、進みそうで進めない中、常に懸命に動いている。
さっきできなかったことが次の瞬間できるようになっていたりして、その成長にいちいち驚き、感心する。
とはいえ、まだまだ見守りが必要な段階だ。 繁忙期だからといって、長時間目を離すことはできない。
実は一度、娘が眠ったすきに家を抜け出して30分ほど田んぼの排水口を作っていたことがある。
帰ってくると、家の外にまで娘の泣き叫ぶ声が聞こえるではないか。
慌てて名前を呼びながら部屋に入ると、眠りから覚めて腹ばいの状態で、これまでに見たこともないほど顔を真っ赤にして、涙と鼻水でいっぱいの娘が、ハタと動きを止めてこちらを見ていた。
幸い、ケガなどの深刻な事態には至らなかったが心底申し訳ないことをしたと猛省した。
それ以来、なるべく一人にしないようにしたいと思うようになった。
だが、それではこの農繁期に作業ができない。
月曜日か金曜日であれば、雲原の自宅でリモートワークをする夫がいるので見ていてもらうこともできるが、夫が京都市の会社へ出勤する火・水・木曜日も雲原にいるときは、私と娘は2人きりとなる。
さてどうするか?と考えたとき、頭に浮かんだのは『雲原の母』の存在だった。
雲原の母、Rさん
Rさんは、2人の娘さんのお母さんである。
娘さんと私の歳が近いこともあって、『3番目の娘』として雲原に越して来たばかりの頃からかわいがってくださっている方だ。
体調をくずしたり気分が落ち込んでいるときにそれとなく食べ物を差し入れてくれたり、雲原で音楽会やパンづくり体験イベントを一緒に考えて開いたり、私にとって母であり仲間であり友達であり、尊敬する人である。
Rさんは、妊娠中から私だけでなく娘のことも気にかけてくれていた。
臨月には、「もし雲原で産気づいたら病院まで送るからいつでも連絡してきて」と声をかけてくれて、いざ生まれると退院の日にわざわざ病院まで駆けつけてくださった。
そんなRさんなら、娘を預かってくれるかも・・?
図々しいと思われるだろうかと内心びくびくしつつ、「明日娘をあずかってくれませんか?」とダメ元で尋ねてみた。
すると、「ええよー!」とあっさり、ご快諾いただいた。
授乳とおむつ替えを済ませた娘とともに自宅で待っていると、Rさんが来てくれる。
Rさんのためのおやつと、娘の遊ぶグッズ(Rさんからもらったものもある)を渡して「もし泣いたらいつでも連絡してください」と言うと、「大丈夫大丈夫」と気楽に送り出してくださる。
何日にも渡ってRさんが娘を見てくださっていたおかげで、要らない獣害対策用の電気柵を撤去し、新たに柵を立て直して電気線をひいたり、排水口の調整をしたり、田んぼを田植えモードにすることができた。
作業を終えて家に戻ると、Rさんはいつも笑顔で迎えてくれる。
帰られた後にLINEで御礼を伝えると「いけるときはいつでもいきますよ!」と返信が来る。
ありがたすぎるなぁと頭が下がるとともに、イヤイヤ無理をして来ているのではないということが伝わってきて、ほっとする。
京都の母、Mさん
こうした関わりについて話すと「田舎ならではですね」と言われることもあるが、実は都会の京都市でも、ある。
京都市では、義母・Mさんが、私たちを気にかけてくれている。
Mさんは、京都市で毎月手づくり市に出店されていたり、水泳やダンス、太極拳などへ毎週通っておられ、専門学校へも講師に行かれるなど、私たちよりも多忙に思える方である。
にもかかわらず、産後一ヶ月の実家での療養を終えて京都市へ帰った次の日。
「ずっと一人で見とかなければってなるとしんどいから、2時間無料でベビーシッターしますよ」と茶目っ気のある言い方であちらから声を掛けてくださった。
一度目の預かりのとき、娘が意外とよく寝ることがわかると、預かる時間をのばして頂いたり、近所のスーパーへのちょっとした買い物で30分だけ外に出たいというときに連絡をとって連れて行っても、快く預かってくださった。
桜の季節には、娘をベビーカーに乗せ、鴨川や植物園へお花見に連れ出してくださることもあった。
母子手帳の月齢ごとの成長記録欄では、子への設問とあわせて毎月「育児について相談できる人はいますか」と問われる。
生後1ヶ月の自宅訪問でも、4ヶ月検診でも、1人で子育てしていないかどうかを入念に確認された。
私はいつも、「相談する人はいるし、助けられまくりです」と答える。
それは、まず夫が育児・家事全般を抵抗なくする人で毎日相談できるという前提がある。
けれど、そんな夫のいない時や、私たちの疲労が溜まってきた時、特に何もない時でも、育児になにげなく加わってくれる人がいることが、ものすごく救いになるのである。
都会でも田舎でも、助けてもらう暮らしは楽しい
この原稿を書いている今日、まさに田植えをする。
今回は、小学校の教員として働く実母に、娘を見ていてもらうよう頼んだ。平日ガンガンに働いていて土日は疲れているだろうなぁ・・と思いつつ初めて助けを求めてみたら、さっと引き受けてくれた。
田んぼに稲の苗を植える作業も、京都市と福知山市から駆けつけてくれる友人たちに手伝ってもらう。
これも4日前にダメ元で誘ったら応えてくれた人たちで、雲原で出会えることをとても楽しみにしている。
このワクワクは、「この人なら助けてくれるかも」「あの人と一緒に作業したいな」という感じで、人に声をかけることから始まっている。
そうした声かけは、RさんやMさんが私たちに対して初めにしてくださったことのマネである。
忙しいときほど、余裕がなくなって、助けてもらうことはもちろん、人と関わること自体に煩わしさを覚えたり戸惑いを感じたりすることもある。
だからこそ、助けられているときは思いっきり「ありがとうございます!助かります!」と受け取っていきたい。
都会でも田舎でも、色んな人に助けてもらう暮らしは楽しい。
明日も、私たちは声をかける。
「無理のない範囲で全く構わないので、ちょっとお願いできますか?」
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